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ポッドキャストで学ぶ韓国語 "サランヘヨ・ハングンマル!" <第32号>
・オヌレ・ハングンマル032 ヨッチョバドデルカヨ?
・韓国語の世界 「愛」と「サラン」の違い!(2010.8.18収録)
重要なことは、日本人の「愛」は一種の形容詞であり、「好き」「嫌い」の話なので、「嫌い」になれば、もう「愛」も止まってしまいます。「愛せない」という言葉がそれです。
しかし、実際に「愛」が動詞ならば、嫌いでも「愛する」ということになるのです。すなわち、相手に嫌いな情をそのままぶつけて理解させようとしたり、理解しようとしたり、情のやりとりを進めることができるのです。
それが、韓国人の「サラン」の人間関係であり、韓国ドラマがとにかく情的に濃くならざるを得ない理由なのです。
韓国人が喧嘩する時というのは、嫌いな情をぶつけあって一つになろうとしている、すなわち、動詞「愛する」の動的な過程なのだということです。それで、韓国では今さっきまで大喧嘩していた二人が、次の瞬間にはニコニコ肩組み合って笑っているなどということがよくあるわけです。
日本人はそれに対して、「嫌い」=「愛していない」状態なので、そこで関係が切れてしまいます。喧嘩は「嫌い」が思い余って爆発した状態なので、その後はほとんど絶交あるのみです。
それで日本人は喧嘩を避けて、わざと人間関係に距離を置きます。そうすれば楽であるだけでなく、実際に平和だからです。しかし、関係を切った平和が本当に幸福なのかは、考えてみる余地があります。最近の100歳以上の老人の行方不明問題など、日本人の人間関係の無関心は極みに達しています。
容器に入れたご飯に文字を貼って、腐る過程を見るという実験があります。「ありがとう」と書いたご飯はおいしそうに発酵し、「ばかやろう」と書いたご飯は腐ってひどい臭いを放つそうです。でも実は、それよりももっと腐敗が激しいご飯がある、というのです。それが、何も貼っていないご飯。すなわち無関心です。
「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」というマザーテレサの言葉がありますが、私たちが何も貼っていないご飯になる時、まさに人間としての心が腐っていきます。
韓国の「サランヘヨ(愛します)!」の人間関係には、そんな、私たち日本人に必要な「心の栄養」があるのだということです。それで、私たちは、なんだかんだと文句をいいながらも、韓流ドラマのドロドロした人間関係にはまって、人間としての心の代替栄養を得ているのだろうと思います。^^)/
2010年8月23日|コメント (0)|トラックバック (0)
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