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ポッドキャストで学ぶ韓国語 "サランヘヨ・ハングンマル!" <第35号>
・オヌレ・ハングンマル035 ヨックォンジュセヨ
・韓国語の世界:「サランヘヨ」が日本を救う!^^(2010.9.8収録)
韓国人は「サランヘヨ(愛します)」という動詞表現で、愛を誓うのだという話をしました。
すなわち、「サランヘヨ」とは、その人に対して責任を持つという宣言であり、自ら主体的に「あなたに愛を与えたい」という情を示すことに他ならないんですね。
しかし、本来、愛というものはそういうもので、たとえば、親が子供を愛する時には、「好きだから」愛するのではなくて、好き嫌いの思いを超えて愛するわけです。嫌いな点があろうと、嫌いな性格の持ち主であろうと、それでも自分は子供を愛する、という愛の誓いによって、そんな「嫌い」を克服します。
祖父母も孫をそのように愛するし、先生もそのように生徒を愛するのが本来でしょう。
同じように韓国では、たとえば、姑もそのように嫁を愛するので、嫁に気に食わない所があっても、責任を持って干渉し、教育しようとします。
私の知り合いで、日本に嫁いだ韓国女性がいますが、最初は日本の姑がよくしてくれると喜んでいたのに、しばらく経つと、「日本の嫁姑関係は韓国よりも難しい」といい出しました。理由は「喧嘩ができないから」。「韓国なら姑が自分に不満があればそれを表現してくれるので、たとえそれでいい争いになったとしても、それを超えて心から理解し合える。ところが、日本では全部ふたをして距離を置いてしまうので、いつまで経っても近くなれず、通じ合えないんだ」といって悩んでいたのです。
本来は男女の愛、夫婦の愛もそのように「愛する」べきものなのです。そうじゃなくて単に「好きだ」、「愛している」という受け身の姿勢では、極端な話、それがいつ変わっても誰も責任が持てません。「好き」も「嫌い」も超えて、「私はあなたを愛します(サランヘヨ)」ということでなければ、時間が経てば「嫌い」な所などいくらでも見つけてしまうだろうし、それを克服する道がありません。
私たちは平気で「愛せない」などということを口にしてしまいます。しかし、それは、本来、「嫌い」だということがいいたいだけなのであって、愛が動詞ならば、本来、「愛せない」などということはあり得ません。たとえ「嫌い」になっても、少しでも克服しようと努力することそのものが「愛する」ことだからです。
そこで、結論です。日本の「愛」という単語はそもそも、明治維新を経て中国から輸入してきた中国語でした。それならば、この際、私たちはその日本の「愛」を補完するために、今一度、韓国から「サランヘヨ(愛します)!」を輸入してもいいのではないでしょうか! 動詞としての愛、「サランヘヨ(愛します)!」をそのまま日本に輸入してしまおうということです!
私の知り合いの日本の家庭は、韓流ブームのせいで、家族で「ヨボセヨ」と電話を受け合うそうですが、それなら、ついでに「サランヘヨ?!」といって切ったらいいのです。
韓国は、「サランヘヨ」であふれています。写真を撮る時や相手にメッセージを送る時に、「サランヘヨ?」といって、頭に両腕でハートマークをつくったり、両手で小さなハートマークを作ります。テレビで誰かが、家族や恋人、友人にメッセージを送る時には、最後は必ず「サランヘヨ?」で結ばれます。
我が家でも、家族で互いにハグする時には皆、「サランヘヨ?」といいながら抱きしめるので、我が娘も、まだ言葉を話し始めた頃に、会社に行く私に対して、「アッパ、サランヘヨ!」といっていました。
我が息子も、幼稚園の時にEメールを覚えて、初めて私に送ってきたメールには、「アッパ、サランヘヨ」とひたすら書かれていました。
日本人は今、人と人との「絆」をつくることが極端に難しくなっているように思います。そこで起こっているのが、韓流ブーム。私たち日本人も「サランヘヨ!」といって愛を宣言すべき時が来ているのではないでしょうか? ^^)/
2010年9月13日|コメント (0)|トラックバック (0)
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